赤信号を渡った朝
5月のある朝、赤信号を渡った。
気づいたのは、車が目の前に迫ってきたときだった。急いで引き返した。横断歩道に残された自分を、周りの人たちがじっと見ていた。
怖かった、というより、恥ずかしかった。いや、それよりも、気づかなかった自分が怖かった。
ボタンが押せなくなった
その頃、洗濯機のスタートボタンを押せないことが続いていた。
押しているつもりが、押していない。気づいたら5回同じことをしていた。妻に「大丈夫?」と聞かれた。大丈夫じゃなかったと思う。でも「疲れてるだけ」と答えた。
薬局長になって、変わらなかった
薬剤師になって6年。最初の3年は、ただ必死だった。処方箋を読んで、薬を揃えて、患者さんに説明する。それだけで精一杯だった。
5年目に薬局長を任されたとき、やる気はあった。スタッフ12人、1日100枚超の大型店。プレッシャーはあったけど、ここで結果を出せれば何かが変わると思っていた。
変わらなかった。
成長してない、という感覚
薬局長2年目の後半から、じわじわと感じるようになった。
成長してない、という感覚。
日々の業務はこなせる。でも「こなせる」と「成長してる」は違う。同じ課題が繰り返されて、同じ対応をして、また同じ課題が来る。その繰り返しに、意味を見出せなくなってきた。
会社に対して思うこともあった。ずっと気になっていたことがあって、ある日、上の人間に話した。業界の慣行として黙認されてきたようなことで、でも自分には受け入れられなかった。
返ってきたのは、沈黙だった。その後も何も変わらなかった。
そのあたりから、ボタンが押せなくなった。信号が見えなくなった。
母からの連絡
ちょうどその頃、母から連絡があった。
知り合いの薬局グループの社長が高齢で、後継者がいない。「一緒にやらないか」という話が出ているらしかった。
最初はぼんやり聞いていた。自分が薬局を継ぐイメージが全然なかった。経営なんてやったことないし、そんな大きな決断を30代の自分がしていいのかという気持ちがあった。
でも、その話が頭から離れなかった。
1年、悩んだ。FPと簿記の勉強を始めたのも、その頃だ。薬局経営を理解したくて。自分にできるのかを判断したくて。
退職を決めた
退職届を出したのは、それから少し後のことだ。
提出した日の夜、不安がなかったと言えば嘘になる。これから先、うまくいくかどうか、正直わからなかった。でも、それよりも大きな気持ちがあった。
確実に成長できる、という確信。
これからの自分がどんな人間になるのか、純粋に楽しみだった。30代でこんな気持ちになるとは思っていなかった。
あの赤信号の朝から、しばらく経った。
今は、ちゃんと青になってから渡っている。洗濯機も、一回でスタートできている。それが何を意味するのか、うまく説明できないけれど。
たぶん、自分の話をしている。

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